こんにちは、つみれです。
このたび、ベストセラーとなった呉座勇一さんの『応仁の乱 – 戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)を読みました。
応仁の乱と言えば、数ある日本史の戦乱のなかでも屈指の知名度を誇り、多くの人が中学校で習います。
- 義政の意思むなしく応仁の乱
- 人の世むなしい応仁の乱
1467年に始まったことから、上のような語呂合わせで覚えた人も多いことでしょう。
まったく知りませんが、大丈夫ですか?
大丈夫です!
私を含め、大抵の人はふんわりとしかわかっていない難しい戦乱なんです。
さて、この応仁の乱。とにかく難解なんです。
将軍家の跡継ぎ問題がこじれ、それに口出しした東軍の細川氏と西軍の山名氏が争い始めます。
この影響で京都が荒廃し、幕府や守護大名の力が弱まっていきました。
そして、下剋上発生→戦国時代突入!
だいたいこんな感じで簡単に説明されてしまうのが応仁の乱です。
かなりふんわりした説明ですよね。
誰が起こして、誰が勝って、誰が得したのか。
その辺がふんわりしていてよくわからないんですよ。
私もだいたいこんな感じであいまいに理解していましたが、どうも本気で語るとこの程度では済まされない複雑さがあるようなのです。
それでは、さっそく感想を書いていきます。
作品情報
書名:応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)
著者:呉座勇一
出版:中央公論新社 (2016/10/19)
頁数:302ページ
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目次
ベストセラーとなった応仁の乱解説本
私が読んだ動機
ベストセラーの歴史本だというので、おもしろそうだと思って読みました。
こんな人におすすめ
- 応仁の乱になんとなく詳しくなりたい
- 日本中世史が好き
- 話題の本が読みたい
僧侶の日記で乱を読み解く
まず本書の一番の特徴として、経覚と尋尊という奈良興福寺の僧侶の日記をメインに応仁の乱を読み解いていくことが挙げられます。
京都で起こった応仁の乱について、奈良で生活する僧侶の日記から背景を読み取るというのはちょっと遠回りな感じがしますよね。
しかし、幕府の主導権争いから少し離れた客観的な視点を提供してくれている点は見逃せません。
また本書でも触れられていますが、この経覚と尋尊が正反対の性格をしていて、同じ事象に対する受け止め方が二者で明確に異なるのもおもしろい点です。
基礎知識
応仁の乱の基礎について、下記で簡単に触れておきます。
応仁の乱の原因
まず応仁の乱の根本的な発生原因は足利将軍家の跡継ぎ問題です。
時の将軍・足利義政には息子がいなかったので、弟の義視に「後継者になってくれないか」と頼みました。
しぶしぶ義視はその申し出を受けるのですが、そんな矢先に義政に息子(義尚)が生まれます。
タイミング考えろ。
義政の正室、日野富子は誕生した息子を次の将軍にしたくてたまりません。
わざわざお家騒動を起こしたくてやっているとしか思えません。
お家騒動クリエーター義政。
なんという無計画。なんという無神経。なんという無頓着。
この足利義政という人は終始この調子で、行き当たりばったりの決定を繰り返していきます。
もうしまいにはかわいらしさすら感じられるようになってきます。
しかし、めちゃくちゃ振り回されそうなので上司にはしたくないですね~。
守護大名の介入
この将軍後継問題に介入し、「あわよくば幕府の実権を握ってしまおう」と考えたのが細川勝元と山名宗全。
細川勝元は駆け引き大好き、陰謀が得意な策略家タイプ。
一方、山名宗全(名前がカッコいい)は豪快な武闘派。顔が赤くてすぐキレるため、あだ名は「赤入道」。
応仁の乱は東軍と西軍に分かれて争ったと説明されることが多いですが、このふたりが東軍と西軍の総大将ですね。
かれらが京都を舞台に戦い、京都は盛大にファイアーしていきます。
同時に管領家(幕府のお偉いさん)である畠山家や斯波家でも家督相続問題が発生しています。
将軍・足利義政は調子に乗ってこれらの内紛の調停のために動きましたが、その性格が災いし、あっちへふらふら、こっちへふらふらし、あろうことか内紛を激化させました。
余計なことをせずにまず自分の家のことをなんとかしろよと強く言いたい。
こんな感じで登場人物たちの利害が交錯している上、将軍足利義政の優柔不断が戦乱を無用に混乱させました。
完全に利害で動いている人物も多数おり、数多くの裏切り者が登場します。
西軍の人物がいつの間にか東軍にいたりするので、当然、私の脳みそはカオスになる。
私は「応仁の乱はどんな戦乱だったの?」と聞かれたら「カオスだった」と答えようと思っています。
これが一番、応仁の乱の性質を端的に表しているワードです。
そうなんです。応仁の乱を簡単に説明してくれ、と言われてもなかなかむずかしい。
この戦乱は、基本的な属性自体がすでに複雑なんです。
呉座氏は冒頭で、下のように言っています。
結局、「この戦乱によって室町幕府は衰え、戦国時代が始まった」という決まり文句で片付けられてしまうのである。『応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱』はじめに
この難しさを考えると、致し方ないという気もします。
気まぐれ将軍足利義政
本書の見どころの一つは、足利義政の比類なき気まぐれさを再確認できるところにあります。
「呉座さんも書いていておもしろくなってきちゃったんじゃないか」と思ってしまうほど気まぐれなんですよ。
義政は情勢に流される傾向があり、その優柔不断さが混乱に拍車をかけた『応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱』p.61
冷静な分析。こういう歴史の残り方はしたくない。
義政が決定を二転三転させることが政治・社会の混乱を生んでいることは疑いなく『応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱』p.74
もうやめてくれ・・・!彼もがんばっているんだ。
勝った方を支持するという義政の態度は無定見の極みであるが、これまでの畠山氏内訌においても、義政は基本的に優勢な側の味方であった。
おかしな言い方だが、情勢次第で方針を転換するという点では一貫しているのである『応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱』p.86
朝令暮改をモットーとするという意味では決してブレていないかもしれない。
足利義視を京都に呼んでおきながら、義視を追いつめるような措置をとった足利義政の行動は、率直に言って理解に苦しむ『応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱』p.103
移ろいやすく気まぐれなのは、女心と秋の空、それと義政。
こんな愛すべきキャラクターいます???
呉座氏はこうした足利義政の無定見を絶妙な物言いで弾劾しながらも、その厳しい言葉の裏にそこはかとない愛を感じます。
そして、呉座氏は義政の意外な面を繰り返し強調しているのです。
結果論的に政治に興味を持たず、文化事業に傾倒した人物と解釈されがちな義政ですが、呉座氏はそんな義政像を完全には継承せず新しいイメージを提供してくれています。
「義政は義政なりに乱の早期解決を望みそれなりに手を打っているが、タイミングが悪く結果的に成果が出なかった」のだと。
マイナスがプラマイゼロくらいにはなったのでしょうか。なってねえ。
しかし、これは考えもしなかった義政像です。おもしろいですね。
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日記のおもしろさ
本書を読むと、歴史史料としての「日記」のおもしろさに触れることができます。
まず歴史を知ろうと思ったら、過去の文献やら遺物やらに当たる必要があります。
これらの歴史研究の材料のことを「史料」といいます。
史料といってもいろいろありますが、その一つが「日記」なのです。
中世の公家や僧侶たちは、非常にまめに日記をつけています。
日記によって過去の事件や当時の人の噂などがリアルに甦ります。
日記は歴史書のように客観的な事実が淡々と書かれているわけではありません。
非常に主観的で感情豊かに書かれた日記には血の通った人間らしさがあらわれています。
別々の二人の日記の同じ日付の記事を読むと、同じ事件のことについて全く別の感想が書かれていたりして、歴史の世界の広がりやストーリーを実感することができます。
本書のおもしろいところは、性格の異なる二人の興福寺の僧侶の日記を手掛かりに、応仁の乱という事件を読み解いていくというスタイルそのものといっていいでしょう。
つまり、下記の二つの日記です。
- 経覚『経覚私要鈔』
- 尋尊『大乗院寺社雑事記』
この二人はライバル的関係なのですが、上にも書いた通り、性格がかなり違います。
経覚は能動的で積極的です。
紛争にも前のめりに首をつっこんでいき、自分がいいと思った方にガンガン加担。
男気もある。ついでに亡くなったときに多額の借金が発覚。おい。
一方、尋尊は受動的で消極的。
基本的に中立を保ち、非常に冷静な一歩退いた目線が特徴です。
乱が起こると日記に愚痴を書きまくるなど、なにかにつけて愚痴っています。
経覚の借金を肩代わりさせられそうになりますが鉄壁の防御態勢で防ぎきります。
この正反対な感じ、すばらしいですね。
乱中の遊芸について
本書のなかで、応仁の乱の最中に行われた遊芸について書かれている箇所があります。
ここがめちゃくちゃおもしろかったです!
応仁の乱が激化すると、公家が地方に避難するので、それに伴って都の文化も地方に普及していきます。
実は「この説は乱の一面しか見ておらず、実は武家も大いに地方に流れた」というのが本書の主張の一つで興味深い指摘なのですが、まあそれは置いておきましょう。
おもしろいのが、上で紹介した日記の著者・尋尊の父親についてです。
尋尊の父は関白の一条兼良という人物で、実質公家のトップです。
彼も御多分にもれず応仁の乱の拡大によって奈良に疎開することになり、子の尋尊のもとを訪ねます。
一条兼良はとんでもないほどの博学で知られ、いかにも優等生的なイメージを受けますが、呉座氏はそんな兼良像をぶち壊してくれます。
一条兼良は尋尊の経済力にものを言わせて、連日飲めや歌えのドンチャン騒ぎをしたそうです。
尋尊はこのために借金までこしらえたというのですから、限度を知らない最強のオヤジと言っていいでしょう。
ここで「林間」という遊芸が紹介されています。
林間といえば林間学校しか思い浮かばない私ですが、この林間は「淋汗」。
これは風呂のことを指す言葉で、当時は風呂がとても流行ったようですね。
さらに風呂から上がるとお茶がでる。ときにお酒や食事も出たようでさながら宴会のようだったといいます。
古市胤栄という武将がこの饗応にあたったときのド派手な宴会に関する内容は、本書のなかでも特におもしろかった必読の箇所。
うーむ、京都で応仁の乱が起こっていたとき、奈良ではこんな派手なことが行われていたとは知らなかったですね。
奈良の僧侶や公家、古市胤栄などの奈良の武士たちにとって、応仁の乱は対岸の火事だったと呉座氏は言っています。(『応仁の乱 – 戦国時代を生んだ大乱』p.149)
そういうものなんですねえ。
また、「闘茶」も行われたと書いてありますね。
闘茶は、お茶をぶっかけ合ったり、茶器で殴り合ったりするエキセントリックなイベントではありません。
闘茶とはいわゆる利き茶のことで、お茶を飲んで産地を当てるというトイレが近くなりそうなゲームです。
政治史は政治史、文化史は文化史という歴史の読み方をしていると、応仁の乱と闘茶はなかなか結び付かないですよね。
こういう政治と文化の繋がりを知ることができるのも本書のおもしろいですね。
応仁の乱で京都から逃げ出した公家たちが、奈良の疎開先で僧侶たちと遊芸にふけったというストーリーはとても興味深いものがあります。
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最後に
呉座勇一さんの『応仁の乱』は、一般的な応仁の乱のイメージを少しでも壊し、より当時の人間の感情によりそった解釈を試みた一冊です。
無能の烙印を押されることが多い足利義政や悪女のイメージが強い日野富子にも別の印象を与えるような説明がなされていたりしておもしろかったですね。
上では触れませんでしたが、他にも応仁の乱で獅子奮迅の大活躍をした猛将・畠山義就など、興味深い人物がたくさん登場しました。
ただ、やはり「応仁の乱」という題材自体が難しく、全体として理解しきれていない感じの残る読書となってしまいました。
一回ですべてを理解するのではなく、まずはサラッと読み進めてみるのがおすすめです。
本記事を読んで、呉座勇一さんの『応仁の乱』がおもしろそうだと思いましたら、ぜひ手に取って読んでみてくださいね!
最後までお読みくださり、ありがとうございます。
つみれ
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