こんにちは、つみれです。
小学生の時以来、三国志が大好きな私が三国志演義の第四回について語ります。
前回の三国志演義第三回では、対立する宦官の十常侍と外戚の何進が共倒れの形で滅び、漁夫の利を得るようにして董卓が台頭しはじめます。
宦官・・・去勢された官吏のことです。後宮(皇帝用のハーレム)の使用人や皇帝の相談役といった役割をもちます。
外戚・・・皇帝の母親、または妃の一族のことです。後漢の時代にはたびたび外戚が権力を持って政権に介入し、政治の腐敗を招いてしまいます。
最強の武将呂布を配下に加えた怖いものなしの董卓は、皇帝廃立という邪悪な計画をぶち上げましたが、袁紹がそれに公然と歯向かったのでした。
第四回は、董卓が袁紹を斬ろうとするところからスタートします。
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【三国志演義:第四回】皇帝廃立と董卓暗殺計画 ←今ここ
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目次
皇帝廃立と董卓暗殺計画!
第四回 漢帝を廃して 陳留 位を践み 董賊を謀りて 孟徳 刀を献ず
(廃漢帝陳留位 謀董賊孟徳献刀)
袁紹は命拾いする
権力を握る董卓に公然と歯向かった袁紹はあわや処刑かと思われましたが、董卓の娘婿李儒の諫言によって命拾いします。
董卓は袁紹の処遇について、侍中の周毖と校尉の伍瓊に相談したところ、下記の提案。
- 追捕の動きを見せれば、袁紹は必ず叛旗をひるがえす
- 名門袁氏の声望は高く、敵に回すと油断ならない
上記のことから、袁紹を懐柔するために渤海郡太守に任命したのです。
実は周毖と伍瓊は袁紹と内通しており、ここでは袁紹が無事に逃げられるように算段したと言われています。
侍中・・・皇帝直属の機関侍中府の官職の一つで、皇帝の側近として顧問をつとめる。
校尉・・・高級武官。
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皇帝廃立断行
自分の意見に逆らう者を排除することに成功した董卓は、いよいよ少帝(劉弁、宮廷内の抗争の末に死んだ何進の甥)の帝位を廃し、新たに陳留王(劉協)を皇帝に擁立します。
劉協のほうが少帝弁よりも優れているからという理由です。
なんと董卓は少帝を殿上から引きずり下ろし、帝位の証である璽(印)と綬(紐)をはずさせ、北面して跪かせます(臣下の礼を取らせるという意味)。
これによって劉弁は、献帝協の臣下という形になってしまいました。
たかが地方の豪族によって皇帝が廃されるという衝撃的な事件は、後漢王朝の終焉を象徴しているできごとと言えます。
ちなみに「少帝」・「献帝」というのは諡といい、普通は貴人の死後に贈られる名前に当たりますので、本来は存命中の彼らに使うのはふさわしくありません。
ですが、『三国志演義』の記述にならう意味と、物語上のわかりやすさを鑑み、本ブログでは今後も使用していきます。
劉弁は弘農王に落とされ、母の何太后・妃の唐氏とともに永安宮に幽閉されてしまいます。
結局、劉弁が董卓に対する恨みつらみを詩として吟じたことが董卓に伝わり、董卓はこれを口実として、娘婿の李儒に劉弁・何太后・唐氏の3名を殺させてしまいます。
在位期間はわずか5ヵ月弱。劉弁は、三国志のなかでもかなり悲惨な人生を送った人物と言えますね。
なぜ董卓は少帝を廃して劉協を立てたのか?
三国志に詳しくなかった頃、私はなぜ董卓が少帝弁を廃して、新たに劉協を皇帝に擁立しようとしたのかよくわかりませんでした。
聡明な劉協よりも、凡庸な少帝弁のほうが傀儡として操るのに適しているのではないかと思ったのです。
これはおそらく、何進一族の息がかかっていない皇帝を立てたかったというのがあるのだと思います。
何進が死んだとはいえ、まだこのときは何進の異母妹何太后やそれをとりまく勢力が健在だったので、そのまま皇帝として少帝弁に居座られると、董卓が権力を握れません。
一方、劉協は先帝霊帝の側室王美人の子で何一族とは何の繋がりもなく、また後ろ盾となるような人物もいません。
董卓が自ら擁立した幼い皇帝の後見として権力を握る、という構図に持っていくには、劉協のほうが都合が良かったということかもしれませんね。
董卓実権を握る
ようやく自分の思い通りになる皇帝献帝を擁立すると、董卓はもうやりたい放題です。
まず、宮中において下記のような特別な振る舞いを許されました(自分でオーケーということにした)
- 靴を履いたまま宮中にのぼる
- 宮中で小走りしなくてもよい
- 宮中で帯剣してよい
すべて一般の官僚には許されていない行為で、これはかなりの特別待遇です。
さらに董卓は「相国」という漢代の最高職にあたる職に就きます。
相国は、前漢の初代皇帝劉邦を補佐した蕭何・曹参という漢建国の功臣二人が就任した職で、彼ら二人が就いたあとは、実質永久欠番的な扱いとなり、誰も就くことがなかった特別職です。
「蕭何・曹参に匹敵する功績の持ち主しか就くことができない最高の職=永久欠番」という漢代の暗黙のルールを、董卓はいともたやすく破ったわけです。
要するに、董卓は後漢のタブーをおかすことによって自分の権力を誇示しようとしたのですね。
とりわけ、董卓の相国就任は、皇帝廃立と並んで、後漢王朝の終焉を象徴するできごとと言っても過言ではありません。
「相国」は、実はもともと「相邦」という名称でした。
中国には「避諱」という慣習があり、偉い人の本名に使われている漢字を避けるということが行われます。
漢の初代皇帝劉邦の「邦」の字を避けるため、同じ意味の「国」の字を代わりに用いることで「相邦」は「相国」と言い慣わされるようになったのです。
曹操、王允から七星刀を借りる
司徒王允という人物がいます。
司徒とは、三公という後漢におけるトップスリー官職のうちの一つです。めちゃくちゃ偉い人です。
この王允が自分の誕生日パーティーを開くからということで後漢の大臣たちを自宅に集めます。
実は誕生日というのはウソで、王允は後漢の忠臣たちと話がしたかっただけ。
高祖皇帝(劉邦)が秦を討ち楚を滅ぼして、天下を統一されて以来、今日まで伝えられてきた漢王朝が、なんと董卓の手で滅ぼされてしまうのです
『三国志演義(一)』/井波律子 kindle版、位置No. 1673
王允が号泣するのを聞いて、集まった高官たちもオイオイ泣くばかり。
そんななかで、一人の招待客が敢然と言い放つのです。
近ごろ、私がへりくだって董卓に仕えておりましたのは、じつは、隙を見てやつを討ち取りたいとひたすら願っているからです。
今は董卓もかなり私を信頼しておりますゆえ、ときには側に近づくことができるようになりました。
司徒どのには、一振りの七宝刀をお持ちの由、どうか私にお貸しいただきたい
『三国志演義(一)』/井波律子 kindle版、位置No. 1685
曹操です。彼は王允から宝刀「七星刀」を借り受け、隙を見て董卓を斬ろうとします。
しかし、曹操のもくろみは呂布に妨害されて失敗。
董卓に「七星刀」を献じようとしたのです、と偽ったうえで曹操は逃亡しますが、董卓も曹操の邪心に気づき、曹操を指名手配します。曹操はお尋ね者になってしまいました。
王佐の才:王佐の才とは、組織のトップを補佐することができる優れた才能をもつ人物のことを言います。
漢の初代皇帝劉邦を補佐した張良、三国志では曹操を補佐した荀彧(三国志演義第四回まで未登場)などにこの言葉が使われます。
上の二人に比べると有名ではありませんが、今回登場した王允も、人物批評を得意としていた学者郭泰によって「王佐の才」の持ち主と絶賛されているのです。
やはり優れた能力を持っていたのでしょうね。
陳宮登場
指名手配犯となった曹操は故郷の譙郡に逃げ帰ろうとしますが、途中、中牟県の関所で捕まってしまいます。
中牟県の県令陳宮は、いったん曹操を牢にブチ込みます。
しかし、陳宮も董卓を快く思っていなかったクチだったので、曹操に尋問を加えるうちに董卓を討とうとした忠義の心に打たれ、曹操と行動をともにするようになります。
曹操にとって心強い同志が一人誕生したことになります。
ちなみに、陳宮は私のお気に入りキャラの一人です!
呂伯奢事件
曹操は陳宮を伴って逃亡を続けましたが、成皋の地にさしかかると、その近くに父の義兄弟呂伯奢が住んでいることを思い出します。
さっそくかくまってもらおうと呂伯奢を訪ねます。
呂伯奢は喜んで曹操・陳宮をかくまってくれます。
曹操たちをもてなすのに良い酒がないということで酒を買いに出かける呂伯奢。
曹操と陳宮が休んでいると、呂伯奢の屋敷の奥から刀を研ぐ音が聞こえます。
曹操・陳宮は呂伯奢一家が曹操にかけられている懸賞金に目がくらんで、曹操たちをだまし討ちにしようとしていると早合点し、呂伯奢一家を殺してしまいます。
実は彼らが研いでいた刀は、曹操たちに振舞う豚を処理するためのものだったのですが、すでに後の祭り。
曹操・陳宮は呂伯奢の家から逃亡します。
逃げる途中で酒を買い込んだ呂伯奢とはちあわせた曹操は、適当に言いつくろってその場をごまかし、呂伯奢を置いて先に進もうとしました。
しかし、数歩も行かないうちに考えを改め、来た道を戻って、なんと呂伯奢をも斬り殺してしまいます。
曹操は、家に帰り着いた呂伯奢が曹操を恨んで通報するに違いないと踏んで、呂伯奢を手にかけたのです。
私が天下の人を裏切ろうとも、天下の人に私を裏切るような真似はさせぬ
『三国志演義(一)』/井波律子 kindle版、位置No. 1779
曹操の名セリフです。ジャイ〇ンです。
これまではあくまで仕事ができる能吏的な側面しか見せてこなかった曹操が、その苛烈な一面を見せた最初のシーンです。まさに「乱世の奸雄」これにあり、ですね。
その後、とある旅館で曹操・陳宮が就寝しているとき、曹操の本性を垣間見た陳宮は、寝入っている曹操を斬ろうとします。ここで第四回は終わります。曹操の運命やいかに!?
呂伯奢事件七変化
実は、この呂伯奢殺害事件は史書によって描写に多少の食い違いがあり、それを読み比べてみると大変おもしろいです。
王沈『魏書』
呂伯奢は外出中。その子どもたちが曹操らの応対をしたが、食客と共謀して曹操を恐喝し馬や荷物を奪おうとしたため、曹操が正当防衛のために彼らを斬った。
いまとなってはこちらの方が珍しく感じますが、曹操ではなく呂伯奢一家のほうに非があったパターンです。
郭頒『魏晋世語』
呂伯奢は外出中。その子どもたちが曹操らの応対をした。董卓に楯突いていた曹操は、呂伯奢の子たちが自分を突き出すのではないかと疑心暗鬼に陥り、夜に彼らを斬って去った。
曹操が悪いパターンです。
孫盛『雑記』
曹操は呂伯奢一家が食器を用意する音を聞いて疑心暗鬼に陥り、夜に彼らを斬った上で、「私が他人を裏切ることはあっても、他人が私を裏切ることはあってはならぬ」と言った。
曹操が悪く、さらに開き直ってみせるパターンです。
いろいろなパターンがあって比べてみるだけでもおもしろいですね。
曹操をどのような人物として描きたかったか、あるいは描きたくなかったかという、書物側の事情が透けて見えます。
『三国志演義』は、『雑記』の最も悪辣とした曹操の姿をつかって、「乱世の奸雄」曹操のキャラクターを描いてみせたわけですね。
このシーンは本場中国で故事成語になっています。
曹操殺呂伯奢(曹操が呂伯奢を殺す)
意味:間違いをさらに間違いで上塗りすること。
終わりに
『三国志演義』の第四回について書きました。
第四回は「乱世の奸雄」たる曹操がいよいよその本性を現した回で、次回の盛り上がりを予感させます。
本記事を読んで少しでも三国志に興味を持っていただけたら嬉しいです。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
つみれ
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